2011年5月30日月曜日

予防処置はデータ分析だけでいいの?

こんにちは。RMI田邉です。

ISOの審査で予防処置の実施状況を確認されます。
「特にありません。」と答えると、たいていの場合、
「収集しているデータを分析し、潜在的不適合を見つけ出すように」
という話になると思います。

「こうしたほうがいい結果が出る」とか
「ここを見ておかないと大変なことが起こる」とか
「なんかわからんけど、これ気になる」とか
日常業務の中で気になること、ちょっとした気付きってありませんか?

データ分析など「客観的根拠」はないんだけど、これらのことは
トラブルの防止(予防処置)にならないでしょうか。

ちょっとした気付きをみんなで共有すること、
ちょっとした変化に気付く感性を磨くことって予防処置に必要な項目に思います。

2011年5月7日土曜日

計画停電

今回の東日本大震災は、福島原発事故を引き起こし大きな電力不足に繋がった。
「計画停電」ほど反社会的なことはないと思っている。何とか避ける道はないのかと必死になって検討された結果少しずつはましな方向に近ずきつつあるようだ。しかし、7月末のピーク時の予想に対し、まだ800万kw程度不足するとのことだ。

民間企業は生死がかかっているのだから必死だ。筆者が以前勤務していた企業は24時間稼動の化学会社であった。2時間の停電は1日以上の操業停止を意味したので到底受け入れられないと思ったのだ。同じような工場は他にも色々ある。精密な温度管理が必要な所、生ものを作るところ、データセンターもそうだろう。つまり工場は「計画停電」をされたら壊滅的な被害を受ける。どう避けるかだ。

リスク対応で企業に格差が出始めている。協力できるところはするとして自分の責任をはたすべく頑張るしかない。(我家も今日から1時間のサマータイムに入った)

                           (株)アール・エム・アイ 
                                  江嵜 為丸

先日のブログで畑村氏を畑中氏と誤記いたしました。お詫びして訂正させて頂きます。

2011年5月4日水曜日

津波警告の碑石

今回の大震災は[1000年に一度]と言う人もいる。また、「想定外」という人もいる。不謹慎かもしれないが今年の流行語大賞に選ばれるかもしれないと思う。

畑中洋太郎著「失敗学事件簿」には、東北の地震に学ぶ教訓と言う記事があった。(2003年5月26日に震度6弱の地震が襲ったことに関するもの)

畑中氏は約40年前、大学3年の夏休みに工場実習で釜石に出かけ、日曜日に海水浴のため、隣村の唐丹(とうに。宮古市姉吉)という所にでかけた。海岸よりはるか高いところにある碑石を見て肝を潰したそうだ。碑石には[ここまで津波が来て皆死んだ。ここより下には家を建てるな」と書かれていた。

「1896年明治三陸大津波では最高38mもの津波が押し寄せ2万2千人以上の人が死んだ。このような大惨事の言い伝えや警告にもかかわらず、あちこちの入江で海岸近くまで人家が下がってきている。こうしてまたいつの日か大災害が起こり得るのだ。」と畑中氏は述べている。

これを読めば、「1000年に一度」とか、「想定外」とか言うことは決して言えないはずだ。
同じような碑石は東北の海岸にはもっとあるのではないか?しかし、いずれも時間の経過とともに忘れられ、あるいは樹木に遮られて警告の意味を為さなくなってしまっているのではないか?今度の震災の記憶は、例えば市内にいざと言うときの避難場所をかねた記念防災館のような建物を建て、そこを色分けするなどしてわかり易く残すべきだとご提案したい。警告は世紀を超えて続けらねばならない。

失敗に関する研究は地道であるが未来を考える貴重なものである。

                        (株)アール・エム・アイ
                               江嵜 為丸