2013年4月23日火曜日

~リスク、経験からの報告~第二回その二(井上喬)

「お詫びと訂正です。
第二回 その一の冒頭部分で「東南海地震」の発生を、1994年と二ヶ所で表現しましたが、実際は1944年の発生でした。
恐縮ながら、訂正ください。
1944年に中学3年生?歳がバレちゃいました)

第二回 「天災の前と最中とその後のお話」その二
               -偶然と機転のお話し、その続き-

余震がいっぱい来るのには困った。
食事の時にグラット来たら、汁けのものを持って中腰に。でも便所の大は参った。新聞や藁を探して来て先にほりこむのやけど完全ではなかった。
そんな時、工場でかなりの余震が来た。立てかけの型鋼が左足の甲に落ちた。裸足やったので、きつうやられた。何日もウミとも血とも分からんのが続いた。雪の振った日など、足跡の中に赤く残った。「ノンキ(私のあだ名)ええのけ」といってくれるが、診療所へ行っても良くならなかった。
地震の後、工場は元に戻らなかった。
 それは、おみくじを引いたら「大凶」をもらったようなものと今になって思います。ではそこから何か得たものがあっただろうか、「機転」「智慧」そして「教訓」です。
(1)機転、とっさの時、つまり身の危険に出会った時にどうするかということです。
 ①「一瞬の判断と、それに続く行動です。」
それは、瞬時に危険の度合いを判断し、妥当な対処法を見出し、そして行動することです。私は運命により実践訓練を強いられました。体感に勝る訓練はないようです。是非皆さん地震の模擬体験にトライされる事をおすすめします。そして、瞬時に安全サイドを見つけて、そこにむかって行動出来る、身体の情報と行動連携を確認される事です。
一瞬にして最短を確認出来る判断力を実行します。
 ②装置も同様に訓練が要ります。
永く重機器メーカーに勤務しておりましたが、大きな地震に遭遇した時に肝心の非常用発電器が動かなかったという事例を数多く識らされました。
「燃料が入ってなかった」「線とかパイプがつながってなかった」「操作方法がわからなかった」「起動用のバッテリーが充電されてなかった」云々です。手術中の病院の停電も聞きました。
 ③とくに乗物には気をつかわねばなりません。
運転中に何かおこったらどうしよう。ジェット機はエンジンが止まったら、墜落します。先般の高松空港へのB-787の不時着は、まだ高度が余り高くなかったので無事着陸する事が出来ました。
プロペラ機はエンジンが止っても、なんとか降りて来る事が出来ます。そんな事で私はジェット機が好きではありません。他力で移動する事のリスク、一瞬の判断、動作が大事になります。
 ④加齢と動体視力
先日眼科医にまいりました。加齢と毎日長時間のパソコンは、「動体視力」に影響ありますよと、早速に車を降りました。時々、「自分はこの歳やけど、運転してるぜ」と自慢される方がおられます。交通不便の地ならば別でしょうが、都会地では、ほめた話ではないと思います。

リスクの局限とは、「停止」だということを少し軽んじる傾向がある昨今です。それは人の「死」であり、その社会(限定した)の崩壊を意味するものです。

「エピソード」:被害は時として隠したくなるもの。
私の経験した1944年の地震は、日本の報道機関では、被害は軽微と報じられましたが、1944128日と9日のニューヨーク・タイムズ紙では、概要つぎの様に報じられていました。
-以下要註分-

1944.12.08付ニューヨーク・タイムズ紙の記事-

観測員が「壊滅的という程の強烈な地震が、昨日真珠湾攻撃の三周年の日に日本附近を襲った」とのAP電を報道。又連邦放送委員会が中央気象台の「震源は遠州灘の某所」との発表を伝えると共に、世界各地の地震観測所の記録を紹介した。更にこれらの観測データに基づいて、この地震が1923年(関東大震災)を上廻る大津波を伴った大地震であると推定している事を述べ、全米各地の大学の研究施設の科学者も同様の意見である事を報じた。
 翌日の紙上では、APUP電のニュースを基に日本の報道機関が、発生した地震の被害を極力小さく見せようとしている模様を伝えた後、アメリカの地震学者が綿密な分析をもとに、日本の工場地帯が大打撃を受けた為、軍需生産が壊滅状態に落ち入った事は間違いない。「真珠湾攻撃三周年」を迎えた日でもあったから、「天罰だ!」と手を叩いて喜んだと伝えられている。

(以上、学友平沢正夫君が、国会図書館に保存されたニューヨーク・タイムズ紙を翻訳して提供してくれたもの)
皆さん如何でしょう。大地震の感触少しは伝わりましたでしょうか。
そして瞬時の恐怖とは別に報道の恐ろしさも読みとれる一コマだったと思います。

第二回後半-了―

2013年4月19日金曜日

~リスク、経験からの報告~ 第二回(井 上 喬)

第二回 「天災の前と最中とその後のお話」その一
       -偶然と機転のお話し-

「東南海地震」といっても多くの方はご存じないでしょう。そ
れは1994127日つまり終戦の前年の出来事なのです。
まさに第二次世界大戦の真っ只中の出来事です。
(地震の実況報告、うまく書けるか今から心配です)

 京都に住む私が、何故「東南海地震を経験したのか?と思わ
れるでしょう。そうです、当時中学生だった私は、学徒勤労動
員令というものによって家を離れ愛知県知多半島半田市の中嶋
飛行機製作所に学徒工員として滞在していました。
 19947月から働き始め、仕事にもかなり慣れていました。
然し113時間の労働で、休みは月2回。少年には過酷なも
のでした。そして運命の127日を迎えました。以下その実
況記録です。
「あーあ、いややなぁ。一ペン映画でも見たいな」そこで決行
することになった。ヒル飯をくうて、工場の隅にある使わなく
なった大煙突のところに集合した。STW君そして自分。
帽子と名札と丸学マークをポケットに突っ込んで周囲を見回し、
高いコンクリート塀を越えて映画館へ。ドキドキしながら席へ
つく、すぐにベルが鳴って二階席の雨戸を女の人が閉め始めは
る、一寸とづつ暗くなる。
「オイ誰え、ゆすんの」いうて後ろを見たがだれもいない。
「地震や」
出口へ向かって走ろうとするがきつう揺れて進めへん、バリバ
リいうて二階席が頭の上へ落ちて来る。出口まで来たが両側の
壁に当たってなかなか出られへん。もの凄い地鳴りがして、
そこらじゅう全部が揺れて家が倒れ始め、電柱がもっと揺れて、
切れた電線が舞う。地割れから水が二階位まで吹いて、土煙が
一杯でそれでもなんぼでも揺れる。死ぬのや思うて皆でしがみ
つくが又バラバラにされる。
映画館はくずれ、前の通りも両側の家が倒れて、なんやかんや
でやっと一人通れるくらい残った。
「はよ、工場帰いろ」
「ここで見つかったら、非国民いわれる」とにかく走った、必
死や、西門が見えた。工場へ駆け込んだ。
「助けて」
「たすけて」
いろんな声が聞こえる。溶接工場のボンベが倒れその下に人が
見える、そして火がついている。いろんな声が一杯聞こえる。
心臓が口からでるんちゃうか、つまづきそうになって必死で走
る。C6「(彩雲)艦上偵察戦闘機」の工場が見えた。
「おお無事か、無事か全員見つかった」
「四年生が部品工場で下敷きや、すぐ行け」こわごわ工場へ入
って外套をとって又四人で走った。
「助かったなぁ、へぇ」
奥へ行く程きつう潰れている。ガソリンタンクの工場では、
箪笥程の煉瓦の壁が一杯倒れている、人がいっぱい下敷きや。
水溜まりみたいに血が溜まっているところもある。どんどん
走って部品工場に来た。そしらぬ顔をして作業に加わった。
死んでるのか、生きてるのか判らん人を戸板に乗せるのを手伝
った。四年生の人が皆で運んでいかはった。

「おいおい誰かいるか、どやどや」とその時、微かなモノをた
たく音がした。「誰おるで」皆で必死でものを除けた。
隙間から手が出たかと思ったら、人が出てきやはった。上級生
や。「潰れてきたしな、必死で旋盤の下へ入ったんや」凄い先輩
やと思った。

「動物的気転の瞬間行動」
この方、後に同志社大学ラグビーのエース荻原さん、そして全日本
ラグビーのエースと聞きました、さすが。
ぐったりして腰を下ろしている。フトみると気持ちの悪い程、
赤い夕陽がひろがっていた。
夕食は蝋燭明かりだった。へんな舌ざわり、干したイナゴを焼
いて醤油をかけたものと、高粱飯だった。いい気持ちはしなか
った。
 その晩不審番に当たった。詰所にいると寮長のところに電話
が入った。「間もなく遺体が帰って来る。面会所を安置所にす
るので準備を」
トラックが着いた、棺桶が5ヶづつ乗っていた。暗い中、懐中
電灯を点けて作業に入る。慌てたようで、手がはみ出したまま
の人もあった。
やっと部屋へ帰ってフトンに入った。
映画館は怖かったな、あの二階席の雨戸を閉めはった女の人ど
ないしやはったやろ。足の悪い人やったけどな。
ここまできたら、ぐったり疲れがでてきました。
少々休憩時間を下さい。

「休憩前のつぶやき」
 巨大エネルギーと突然の出会い、何の前触れもなくやってくる地震、
他に似たようなものはないか?探してみますと、
①自動車、自転車などの人工乗物の操作
②位置エネルギーを利用したスポーツ(スキーなど)のプレー
いずれも予知なく、衝突・転倒・落下等の危険と出会っています。
こうした中で、皆さんは絶えず「安全サイド」意識して行動されて、
それを乗り切ってこられたと思います。
ただ、この行動には個人差があります。先天的と後天的の差はあるでしょう。
私の場合は先天的に「のろい方」でしたが、この地震とその後終戦で
この地を離れるまで、9ヶ月で1000回を越える余震に習されました。
そのお陰か未だにテニスをしています。
だからといって、「地震をお勧めする」ことは出来ないし、せめて
一度「地震体験教室」に参加されては如何でしょう。
それから絶えず無意識のうちに、安全サイドを意識する訓練
されることは大変役立つように思います。
ビジネスの場でも、大切なことと思います

第二回の前半 ―了―

2013年4月16日火曜日

~リスク、経験からの報告~ 第一回の続き(井 上 喬)

皆さん、阪神淡路地震のご経験お持ちの方は多いようで、いろ
いろと「ご質問」「ご意見」を頂きました。有難うございます。
中に、「あなたなり(井上)の意見アドバイスを纏めて欲しい」
が多くありました。
そんなことで、弟二回の前に「第一回の続き」を書かせていた
だきます。

①「実地やテレビの画面」で、「てこ」の利用が殆どありませ
んでした。そのため、おもい木材などの下敷きになられた人
を、救い出すため難渋されていました。多くの人を集め、重
量物を皆で抱え上げておられました。「てこ(梃子の原理)」
を応用されれば、随分事体は違ったのではないでしょうか、
最も学校で「梃子」というう「字」すら、習ってられないの
でしょう、考えどころですね。
②また同様に、「綱引きの応用」も殆どみられませんでした。
もっともこれも周囲に、綱など見当たらないですね。
③次は「規格問題」です。当時全国の自治体から「水道・ガス
の復旧応援部隊」が、多く駆けつけられたのですが作業は難
渋の繰り返しでした。「口径寸法・ねじのピッチ」が、自治
体により異なり、大変困られた様子でした。
その後、統一化が進んでいると聞きますが、早い進展を願い
たいものです。
④「エネルギー開通の手順前後」地震で倒れた、建物などから
漏れ出したガス類は、一般的には地面の低いところに溜まっ
たままです。ここへ、停電中だった電気が復活し通電すると、
冷蔵庫のようなサーモスタット(自動恒温装置)のついた器
具は作動し、スパークがでます。これによる出火が多発した
ようです。
 ⇒ こればかりは、訓練も出来ません。「知識として持っ
て頂き」咄嗟の場合に対応して頂くしかないようです。
⑤「交通渋滞問題」です。詰まるとは本当に詰まるのです。
当時の事情では、東西の道路の大半は山陽側に集中していま
した。山陰側は、片側一車線の9号線だけ、そこへ無数の大
型トラック。京都市内を抜けるときは、100m1時間といわれ
ました。当然交差点も同じです。ですから、この9号線が東
へ抜ける通称五条通りは、東西南北どの方向も氷結状態とな
りました。そうなんです、街中がフリーズしていまいました。

日本の多くのインフラは、それぞれが計画された時代から、
今日ではその社会・風土・技術が大きく変わりました。
多重化・高度化・広域化し、それに技術の進歩が大きく変わ
りました。それぞれの企業でも同様なのです。
それにつれ「災害も成長しました」(変な表現ですが、講演な
どでこのように表現すると一番理解して貰い易いです)、
要は局部的な解決より、綜合した回復を目指すことが大切と
提言します。

     Solution   解決するから
          Recoverry    回復へ

 「つぶやき」
 情の時代から、知識の時代へ
日本人は、長い「情の時代」という祖先を持っています。(平安京)
そこでの暮らしから得た「教訓や掟」といった、便利な極まりごと
は、知恵(智慧)として、世代を超えて伝承されました。
京都に祇園会(祭り)の鉾の巡行というのがあります。その最大の
見せ場「辻回し」は、知恵の見せ場として、最高のシーンです。
普通の家の三階もあろうかという、木組みの建造物、移動は直進
しかできない木車。これを90度転換しようという、角曲がりです。
ここで活躍するのが「梃子と綱引き」です。
「梃子の原理」で重量物を持ち上げ、「綱引きの力」で方向転回
するという、「大道実演」です。

長い情の時代という先祖を持つ私達は、興奮します。
一方、知識の時代を多くもたれる外国の方々は、直進しか出来な
い車や、馬車やトラクターで引かない重量物を、何故人間だけで
操作するのか、不思議と驚きをもたれるようです。

このように同じ災害に出くはしたときに、民族により差が出るといわ
れます。滞留される外国の方が多くなった昨今、非常口の表示な
ど、心配りが大切と思います。

                     第一回の続き  ―了―

2013年2月22日金曜日

~リスク、経験からの報告~ 第一回(井 上 喬)

 当社はリスクを研究している会社です。
だからといって、リスクについて全てが理解できているものではありません。また、世の中でも「リスクとは、なんだろう」と色々のご意見があります。
ただ、これらを総じて「リスクマネジメント」と呼んでいます。しかもその内容について、大方の方々が認めるような「定説」もありません。当社もそれなりの提言を持って業務を行っています。
 ただそのような考えの中「経験したリスク」だけは、紛れもなく存在した現実です。そんなことから経年齢大の私から報告します。ご関心頂ければ幸いです。

「経験した、天災リスク」三題です。

第一回 「天災をどう迎えるか」- 阪神淡路大震災からの報告
              ― 知識と知恵のお話し -

第二回 「天災の最中とは」- 東南海大地震からの報告
         ― 偶然と運と機転のお話し -

第三回 「天災がやってくる」― 「室戸台風・伊勢湾台風」
         ― 無知と予知と既知のお話し -

それでは今日は、第一回です。


第一回 「天災をどう迎えるか」- 阪神淡路大震災からの報告
         ― 知識と知恵のお話し -

 1995年「阪神大震災」から18年、当時の事がいろいろ思い出されます。
当日午前5時46分、私は京都向日市の自宅で寝ていました。
突き上がって来る様な揺れ、一瞬にして直下型でない西南の方向だと判断しました。
実は私、東南海地震(これについては次回報告)づれしていました。

 神戸の方角、とっさに従兄弟達がいる大丈夫だろうか?4日めから情報が入りだしました。まず家内の従兄弟夫妻、芦屋の立派な家に住んでおられました。たまたまご主人の方は病院入院中で難を逃れられました。家が倒壊し奥さまは大怪我をされた由。
他方私の従兄弟は、ご主人に先立たれ夙川の古い借家住まいでした。多分駄目だろうと思ったが、案に相違して無傷でした。

 これだけならただの報告ですが、少し事情がありました。これからが本題です。

 芦屋のF氏宅を、夙川のNさん宅は同じ甲山破砕帯の真上にあったのですから、双方の家とも完璧に崩壊しつくしてしまいました。

 ところで芦屋のF氏は、某市立大学の署名な地質学者でした。或る時こんな忠告を頂きました。「喬君、六甲山は大変脆い地質なんだ、だから新幹線の六甲トンネルは危ないよ。僕はね、東京へ行く時は新大阪から乗り、九州へ行く時は新神戸から乗る事にしているよ」と。
やはり学者はえらいもんだな、と思いましたが、自分が九州へ行く時はどうすればいいのかな?解けぬ難題として今も残っていて、九州へ出かける時は、六甲トンネルを抜ける時なんとなく胸騒ぎがとまりません。

 さて一方、夙川のNさん、完璧につぶれてしまった建物でどうもなかったのか?
「なにいうてんの。喬ちゃん、あんたのお陰で助かったんよ」
「へぇ、私何言いました?」
「あんたな、“古い木造の一階は絶対危いで、二階で寝てな、枕元に丈夫な机をおいて、メガネを忘れずハンコと通帳もちゃんと持ってな。”こないに言うてくれたんよ。そやしその通りにしてたの。グラっと来たのでフトンにもぐって、ハンコと通帳を抱いてな、揺れて揺れて、ガタンガタンと落ちて行ったんよ、やっと揺れがおさまって、フトンから顔を出したら、天井が割れていて空が見えたんよ。30分程たって近所の人が助けに来やはったら私が無傷やったんでビックリしてはった。」

この辺りでストップします。

 どうでしょう皆さん。芦屋のFさんは知識の対策、夙川のNさんは智慧の対策、両方のお宅が甲山断層の上にあった、偶然。

 今、訪れても双方とも跡形もありません。天災に立ち向かう人間。「知識なのか智慧なのか」突きつめて見ても、答えはないように思います。それよりも、もう一つ「運」もあるかも知れません。

 次回は半田の地震体験「東南海地震」の報告をします。

1900年以降の巨大地震ビック20(ご参考)

 
名称
M
1位東北地方太平洋沖(東日本大震災)20119.0
2位十勝沖19528.2
3位北海道東方沖19948.2
4位昭和三陸19338.1
5位択捉島沖19588.1
6位択捉島沖19638.1
7位喜界島19118.0
8位択捉島沖19188.0
9位昭和南海19468.0
10位十勝沖20038.0
11位大正関東(関東大震災)19237.9
12位昭和東南沖19447.9
13位十勝沖19687.9
14位硫黄島近海20007.9
15位色丹島沖19697.8
16位北海道南西沖19937.8
17位父島近海20107.8
18位日本海中部19837.7
19位択捉島沖19957.7
20位石垣島南方沖19987.7
注―1 東日本地震はM9.0と群を抜いて巨大な規模でした。
注―2 阪神淡路地震は規模としてはM7.356位でした。
注―3 私が遭遇した昭和東南海地震はM7.912位でした。

備考「地震の規模と震度の関係」
この関係は電球の「明るさの度合いと眩しさ」に似ています。
同じ100ワットでも、眼前で見るのと離れてでは違います
こんなことから、眩しさのところを「震度」と呼んでいます。
Mの値が小さくとも、震度は大きいこともあります。
昔は「微・弱・強・烈」でしたが。今は数値化されました。

過去の著名な地震の規模と震度
関東大震災 M7.9-震度7以上(想定)
昭和東南海 M7.9-震度不明(地震計破損)私の体験地震
阪神淡路地震 M7.3-震度7以上
東日本地震 M9.0-震度7以上

私の経験した、昭和東南海地震は次回報告します。

(第一回おわり)