2013年4月19日金曜日

~リスク、経験からの報告~ 第二回(井 上 喬)

第二回 「天災の前と最中とその後のお話」その一
       -偶然と機転のお話し-

「東南海地震」といっても多くの方はご存じないでしょう。そ
れは1994127日つまり終戦の前年の出来事なのです。
まさに第二次世界大戦の真っ只中の出来事です。
(地震の実況報告、うまく書けるか今から心配です)

 京都に住む私が、何故「東南海地震を経験したのか?と思わ
れるでしょう。そうです、当時中学生だった私は、学徒勤労動
員令というものによって家を離れ愛知県知多半島半田市の中嶋
飛行機製作所に学徒工員として滞在していました。
 19947月から働き始め、仕事にもかなり慣れていました。
然し113時間の労働で、休みは月2回。少年には過酷なも
のでした。そして運命の127日を迎えました。以下その実
況記録です。
「あーあ、いややなぁ。一ペン映画でも見たいな」そこで決行
することになった。ヒル飯をくうて、工場の隅にある使わなく
なった大煙突のところに集合した。STW君そして自分。
帽子と名札と丸学マークをポケットに突っ込んで周囲を見回し、
高いコンクリート塀を越えて映画館へ。ドキドキしながら席へ
つく、すぐにベルが鳴って二階席の雨戸を女の人が閉め始めは
る、一寸とづつ暗くなる。
「オイ誰え、ゆすんの」いうて後ろを見たがだれもいない。
「地震や」
出口へ向かって走ろうとするがきつう揺れて進めへん、バリバ
リいうて二階席が頭の上へ落ちて来る。出口まで来たが両側の
壁に当たってなかなか出られへん。もの凄い地鳴りがして、
そこらじゅう全部が揺れて家が倒れ始め、電柱がもっと揺れて、
切れた電線が舞う。地割れから水が二階位まで吹いて、土煙が
一杯でそれでもなんぼでも揺れる。死ぬのや思うて皆でしがみ
つくが又バラバラにされる。
映画館はくずれ、前の通りも両側の家が倒れて、なんやかんや
でやっと一人通れるくらい残った。
「はよ、工場帰いろ」
「ここで見つかったら、非国民いわれる」とにかく走った、必
死や、西門が見えた。工場へ駆け込んだ。
「助けて」
「たすけて」
いろんな声が聞こえる。溶接工場のボンベが倒れその下に人が
見える、そして火がついている。いろんな声が一杯聞こえる。
心臓が口からでるんちゃうか、つまづきそうになって必死で走
る。C6「(彩雲)艦上偵察戦闘機」の工場が見えた。
「おお無事か、無事か全員見つかった」
「四年生が部品工場で下敷きや、すぐ行け」こわごわ工場へ入
って外套をとって又四人で走った。
「助かったなぁ、へぇ」
奥へ行く程きつう潰れている。ガソリンタンクの工場では、
箪笥程の煉瓦の壁が一杯倒れている、人がいっぱい下敷きや。
水溜まりみたいに血が溜まっているところもある。どんどん
走って部品工場に来た。そしらぬ顔をして作業に加わった。
死んでるのか、生きてるのか判らん人を戸板に乗せるのを手伝
った。四年生の人が皆で運んでいかはった。

「おいおい誰かいるか、どやどや」とその時、微かなモノをた
たく音がした。「誰おるで」皆で必死でものを除けた。
隙間から手が出たかと思ったら、人が出てきやはった。上級生
や。「潰れてきたしな、必死で旋盤の下へ入ったんや」凄い先輩
やと思った。

「動物的気転の瞬間行動」
この方、後に同志社大学ラグビーのエース荻原さん、そして全日本
ラグビーのエースと聞きました、さすが。
ぐったりして腰を下ろしている。フトみると気持ちの悪い程、
赤い夕陽がひろがっていた。
夕食は蝋燭明かりだった。へんな舌ざわり、干したイナゴを焼
いて醤油をかけたものと、高粱飯だった。いい気持ちはしなか
った。
 その晩不審番に当たった。詰所にいると寮長のところに電話
が入った。「間もなく遺体が帰って来る。面会所を安置所にす
るので準備を」
トラックが着いた、棺桶が5ヶづつ乗っていた。暗い中、懐中
電灯を点けて作業に入る。慌てたようで、手がはみ出したまま
の人もあった。
やっと部屋へ帰ってフトンに入った。
映画館は怖かったな、あの二階席の雨戸を閉めはった女の人ど
ないしやはったやろ。足の悪い人やったけどな。
ここまできたら、ぐったり疲れがでてきました。
少々休憩時間を下さい。

「休憩前のつぶやき」
 巨大エネルギーと突然の出会い、何の前触れもなくやってくる地震、
他に似たようなものはないか?探してみますと、
①自動車、自転車などの人工乗物の操作
②位置エネルギーを利用したスポーツ(スキーなど)のプレー
いずれも予知なく、衝突・転倒・落下等の危険と出会っています。
こうした中で、皆さんは絶えず「安全サイド」意識して行動されて、
それを乗り切ってこられたと思います。
ただ、この行動には個人差があります。先天的と後天的の差はあるでしょう。
私の場合は先天的に「のろい方」でしたが、この地震とその後終戦で
この地を離れるまで、9ヶ月で1000回を越える余震に習されました。
そのお陰か未だにテニスをしています。
だからといって、「地震をお勧めする」ことは出来ないし、せめて
一度「地震体験教室」に参加されては如何でしょう。
それから絶えず無意識のうちに、安全サイドを意識する訓練
されることは大変役立つように思います。
ビジネスの場でも、大切なことと思います

第二回の前半 ―了―