2011年10月23日日曜日

京都を学ぶ ~経営編~ 第8回 最終回 (井上喬)

5.これからの心配(情報化時代の到来)

~知識の時代を謳歌した京都、情報化時代は大丈夫か?~

 京都には沢山の大学があります。
京都企業からの寄付金は毎年相当な高額と聞きます。
またこんな経験もあります。東京と京都の大学で講義をうけました。
京都の講義は、乱暴というかまとまりが少ない、けれどユニークな何かがある。他方東京の講義は理路整然で、ノートに書き留めるだけで出張報告書が出来あがる。
こうした事情かノーベル賞を受賞した多くの方は、東京でなく京都です。
マサチューセッツ工科大学の畠中さんはこの説明で随分納得されたようでした。

 ただ一方で私は少し疑点を持っています。
ドラッカーさんの「知識こそ最高の資源」という言葉にこだわり過ぎていないでしょうか。

 今や情報のシステム化が新たなものを、生み出しつつあると思います。所謂情報化社会の出現です。
「知」を中心に据えた京都型経営、果たしてこの先どうだろうか、社会はその様子を大きく変えようとしていると聞きます。
知識があるといわんばかりのやや偏屈な京都人。
そうした人が集まって「どうだ賢いだろう」といった行動、果たしてこの先続いていけるのだろうか?
「知識社会」から「情報化社会」へ移行しつつある中で、果たしてこれでよいのでしょうか?


(終わりに)

「偏屈型の京都」この先どうなるでしょう。
「気位が高くて一見さんお断り」の京都、孤高という言葉が死語になるのでは、「もっと知識を、もっと創意を」今では知識過剰となったこの街、京都。
今や社会は経済価値から社会価値へと人々が動き始めたと聞きます。
社会への貢献とは、社寺仏閣の数や有難さを唱えて、一見さんを断って達成されるものではない筈です。
京都人とは古い社会の価値の中で威張っている集団と言われる心配、こんな大きなリスク。
自身も考え直さないといけないと思っています。



(参考文献)

・李 御寧 「縮み志向の日本人」(底本1984年、再販2007年、講談社学術文庫)
・今井賢一 「情報ネットワーク社会」(1984年岩波新書)
 P-203「形式情報」と「意味的情報」両方の間に新たな分業がおこり、
 人と人の接触の仕方や、組織のあり方を変えつつある。
 (ネット社会と縁社会の連携を指摘されている)
・PFドラッカー 「ポスト資本主義社会」(1993年、ダイヤモンド社)
 P-354「知識人」には、道具としての組織が必要である。
 他方「管理者」は、知識をもって組織の目的を実現するための手段とみる。
  (マネジメントだけが、組織運用の全てではないと指摘されているのではないか)
 (また、「知識社会」を指摘されているが、「情報社会」の言及はない)